どこへいったらいいのだろう14
顎の力が無くなっている。由紀がむいてくれたリンゴをちゃんと食べられない。人間は使わないと退化してしまうようだ。由紀が隣にあたり前のようにいてくれることがうれしかった。
わたしはICUから一般病棟に移された。
「仕事のほうは大丈夫なのか。」
「師長さんに無理を言って、休ませてもらっているの。もうそろそれ出ないと、みんなの迷惑になるから。スタッフに恵まれているので、融通利かせてもらってるのよ。心配ごとはいろいろあるんだけど。」
看護師である由紀にとって、この1週間は無理のしどうしだろう。お姉ちゃんのこともあるし、わたしがこんな状態だし、仕事のことも考えないといけないしで、たぶん気を休めることができなかっただろう。もともハードな仕事だちゃんと寝ないと体がついて行かない。
「これまで立て続けに働いていたから、ちょっとした休暇と思ってもう少し休みをもらえよ。」
「そんなことできないわよ。」
由紀を目の下にもくまができているくらいにやつれていた。大げさに手を振って見せたが、そのしぐさに元気がなかった。人間体の元気がなくなると、精神的にもめいってしまう。健康があってこそ、なんでもできるのだ。
気楽なわたしは適当なことを言っているのは解っている。責任感の強い由紀がそんなこともできるはずもなく、仕事でスタッフに迷惑がかかっていることも相当気にしているだろう。
看護師は一人欠けるとスタッフのやりくりが結構大変になる。24時間体制でシフトを組んでいるので、由紀の穴を誰かが埋めることになる。穴を埋めに入った人は勤務がより過酷になるのだ。スタッフの気力もそう長くは続くはずもない。最初は良くても、長引くと由紀も返って立場も悪くする。わたしも社会人なので、最低限の礼儀の範囲くらいはわきまえているつもりだ。由紀が気にするのも無理はない。
「僕のほうはもういいよ。命は助かったみたいだし、多少不便だけど、誰かが本も一杯持ってきてくれたみたいだし。」
わたしの枕もとには本が積みあがっていた。早く体が良くなって本でも読めよと、佐伯が置いていってくれたものだろう。わたしは意識がない間も毎日少しづつ置いていったらしいのだ。わたしの怪我が早く治るようにと、佐伯流の気の使いようだ。変なところで気を使うのが佐伯なのだ。それでいて由紀のことを思いはかって長いはしない。時にはめんどくさい奴であるが、いいところもある。
「こんなに本もあるし、これ全部読むのにはかなり時間がかかりそうだし。もう家に帰って横になって寝た方がいいよ。ちゃんと寝てないと仕事もできないよ。体は大事にしないと。」
「そうね。じゃ家に一度帰るわ。」
由紀はどちらかというとタフである。ただ、がんばりすぎることがあるのだ。やるべきことを後に回さない代わりに、自分の寝る時間を削るということを良くやっていた。何かトラブルが起きると、徹夜に近い状態で勤務をしていたものだ。看護師はミスが命とりになるので、仕事中気が抜けない。そんなことを長く続けられるはずもなく、体を壊してしまうこともよくあることだった。
とりあえず由紀にはゆっくり休んでもらおう。わたしはどうせ動けないんだし、ゆっくり先のことでも考えればいいさ。
「でもなんで由紀のお姉さんの旦那が、ぼくを刺さなければいけなかったんだ。」
わたしはいくらなんでも辻褄が合わないと思っていた。お姉さんを刺すならまだしも、わたしを刺すなんてことはどう考えてもおかしい。
「それなんだけど、たぶん勘違いしていたんだと思う。」
「勘違い。それどういうこと。」
「実はお姉さんが旦那さんと別れたいといったとき、男でもできたのかっと言ってたらしい。そんなことあるはずもないんだけど、旦那さんも思いこみの激しいところがあって、自分に原因があるってことをわかってもらえなかったのよ。旦那さんの仕事場は離婚する人は出世の面でもペナルティになるらしいのよ。家庭もろくに守れない人間に部下を守れるはずはないってことらしいんだけど。」
「そういうことか。」
わたしは納得したような、そうでないような。どちらにしても理解のできないことのように思えた。
お姉さんの旦那とは1度きりしか会ったことがない。由紀とお姉さんがいっしょに住んでいた今の由紀が住んでいるマンションから引っ越す時に、引っ越し先で見たきりだ。それも一瞬程度ちらっとだ。普通なら手伝ってくれた人に対して礼ぐらいはいうだろう。それくらいの礼儀もわきまえないような人間であった。それで顔もあんまりピンとこなかったのだ。その当時も神経質な印象はあったけれど、この間刺されたときの目つきは病的なくらいであった。
引っ越しの時ぐらいは普通手伝うだろう。それも自分の嫁になる相手の引っ越しなんだから当然だ。会社もそれくらいでとやかく言わないだろう。その時も仕事が忙しいとの理由でお姉さんにまかせっきりだった。引っ越し業者に任せてしまえばいいと言って手伝いにも来なかった。
お姉さんも由紀と同じ姉妹だけはある。責任感は由紀の家系の遺伝のようである。
一人でがんばって文句も言わず切り盛りをしていた。
旦那は仕事が忙しいということより、休みをとると出世に響くと考えていたようだ。会社がすべてで、会社の言うとおりに動くことが出世への近道だと考えているだろうか。そんなことで出世に響くような会社なら、高々しれている。そんな会社は早く辞めたほうがいい。建前だけ家庭が大事と言ってみたところで、実際の気持ちがそうでなければどうしようもない。わたしが同じ立場ならそんな会社で出世したいとも思わないだろう。上司がそんな料簡の狭い人間なら、誰もついてこないだろう。それで会社が成り立っているなんてどうかしてる。
しかし、考えてみたら世間は意外とそんなところで判断することが多いのだ。人間の仕事ぶりを残業時間でしかはかれない。部下の働きぶりを見る能力がないというのが理由だろう。できる人間は人の動きを的確にとらえることができる。自分のことばかり考えている人間には、人の動きの理由など読み取れるはずはないのだ。結局できる人間は上に行こうが下にいようが、能力を発揮しているのだ。会社をほんとうにささえている人間がきっちり評価されるとは限らないのだ。
由紀の病院でもとんでもないのが上の方へいっているらしい。ほんとに患者のことを考えて、多少のリスクを負ってでも、患者のためになる治療をしている先生は少ない。患者サイドのものの考え方を持っている医者の方が、かえって出世できないようになっている。ペーパーができるか、上へ媚びることがうまい人間がどんどん上がるシステムになっているのだ。病院だからといってもしょせんは会社組織と変わりない。病院が訴えられるリスクを犯すくらいなら、リスクのない方法で納得させるほうが得策だと考えている医者がいかに多いことか。当然部下がリスクを負う治療方針には反対してくるのだ。それに対抗して治療を行えば、出世なんての考えられない。下手すれば、どこかへとばされるのだ。そんな医者を何人も見ていると由紀は言っていた。由紀にはどうしようもないこのことで、怒りがこみ上げてくることはよくわかる。この点に関して由紀の意見に大賛成だった。
それにしてもどうも合点がいかない。出世ごときで人を刺すだろうか。家庭の崩壊は自分の責任のはずだ。それが理解できないなんてことがあるのだろか。人を刺した時点で出世なんて終わってしまう。もう周りが見えなくなってしまったのだろうか。お姉さんの旦那もまだ捕まっていないといっていたし、気になることはまだある。お姉さんこそ危ないのではないだろうか。
でもこれ以上由紀に心配かけるのはよそう。今へんな質問をして由紀を気持ちを乱すのは得策ではない。今は由紀が元の通り元気になるのが先だ。わたしのほうより由紀のほうが元気がないからだ。
由紀が部屋を去って行き、わたしも再び眠気に体を任せることにした。わたしも怪我をしていることを思いだしたからだ。
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